その後、1980年に文化大革命が誤りだったとされました。民衆の怒りを収めるために、政府の体育機構は中国人の数千年の文化の中にあった伝統武術の復興を救済すると発表して、武当山周辺にも武術学校を設立して、武当山の武術を復興させようとしましたが、当たり前ですがもう既に武当山に太極拳などの武術は残っていませんでした。そこで、しかたがなくスポーツ化された武術指導家達に武当山周辺の武術学校を運営させ面目をはかりましたが、結構これが成功し、民衆は新しい政府に対し怒りの矛先を少し納めたようです。
そしてその成功をもって、1986年3月に「国家体育武術研究院」が設立し、伝統武術の発掘や国際化を本格的に行なうことになりました。中国の民衆が民族武術に対する思い入れがあることを再認識したのでしょう。しかし、それはより民族蜂起につながる懸念であるので、より市民的なスポーツ競技として武術を定着させるために、1990年には中国が初めて主催した「アジア競技大会」で武術 ( Wu-shu )を公式競技種目として加えて、国民に対する民族武術への振興を大きく示しました。
その状況の中で 楊式太極拳を含む伝統太極拳は套路など万人に親しみやすく、又制定された太極拳の套路は民間の健康体操として世界中に流布されており、太極拳は新生中国を象徴する、神秘的な近代中国武術体操として、気功を含め世界中にアピールするための道具として大いに用いられるようになったのです。
しかし中華人民共和国成立から文化大革命の30年間のすさまじい徹底的な破壊により、全ての中国武術は中国国内において一世代に相当する伝承期間を抹消されました。伝統太極拳などの国策に協力した流派は、政府に迎合して現代スポーツ武術にしておいたので形だけは残りましたが、武術が既にスポーツや万人向けの健康運動に変貌するだけの十分な期間でした。
ちょうど、文化大革命が中国で終焉を迎える頃の1977年頃、大阪ミナミの繁華街の裏世界はまだまだ無法地帯でした。そんな中で、私は王師と巡り会いました。毎日起こる修羅場の中で王師は私に身を守る術だといって太極拳を執拗に教え始めました。
そして1990年まで王師に師事し、大阪で王師の代理で太極拳を教えることになり印可を受けました。この時に私は1年ほど仕事などを一切辞めて、王師と共に武当派の楊式太極拳を系統的に整理しました。この時既に王師は80才を超えたところでした。
その後私が東京に移住した後、1995年の阪神淡路大震災のあと王師は行方不明となっています。