中国の禁武政策

  • 589年-960年の隋唐五代の371年間隋末の農民大決起(農民一揆)により、これを鎮圧できなかった煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていました。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺されてしまい隋は滅んでしまいます。そこで618年5月、煬帝が殺されたと知ると李淵がこの一揆を鎮圧して、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となり。新たに唐王朝を興しました。この時に李淵がとった政策が、隋を滅ぼす要因になった民間武術を廃絶すると云うものでした。そして、唐の後の五代までこの政策は、続く事になるのです。
  • 1271年-1368年の元の97年間

    (げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配したました。モンゴル族にとっては、中国古来の民間武術は政権を揺るがす要因になるとして、中国にある民族武術を撤廃する政策を展開しました。 当時、武術云々をしている事がばれると、死刑に処せられたほどです。この時期に、迫害によって武術民族は僻地へ追いやられたのですが、武当山や少林寺にも多くの武術家が流れ込みました。そこに流れ込んだものの一人が張三豊です。

    その後明が元朝を押し出しますが、その時に陳一族が元朝に加担したため、明の太祖・洪武帝によって「犬の子一匹、生きて残すな」という殺戮によって無人地帯と化していた河南省温県常陽村(現・陳家溝村)に1374年、一族の長老、陳ト(これを陳氏初世とする)に率いられ強制移住させられました。そこが陳家溝です。その時に陳氏一族に家伝として伝えられていた武術が陳家太極拳の起源であるとされています。

  • 1644年-1912年の清の296年間

    (しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝です。しかし、中国の歴史上では、元と同じく征服王朝の一つに数えられます。このように清朝は元と同じように、中国古来の特に漢族の民間武術は政権を揺るがす要因になるとして、中国にある民族武術を抑圧管理する政策を展開しました。そのため、多くの民族武術は地下に潜ったり、又は、根絶されたりしたのです。中国には武術のメッカとして少林寺がありました。一つは河南省の嵩山にあり、今一つは福建省の九蓮山にあり、ともに禅宗の聖地であり、少林拳で有名でした。ここに多くの明朝時代の武士達が集まり、反清復明の基地となったため、河南少林寺は3回大きな災厄に見舞われました。福建少林寺は清朝によって焦土と化して完全に消滅させられました。明朝では玄天上帝信仰を国家鎮護としていましたので、その聖地である武当山は大切に保護されていましたが、清朝においては国家鎮護とはしませんでしたが、民衆の信仰も厚く、この武当山を粗末に扱うことは、民衆の不満を買うものと考えから制限・管理・保護の政策をとりました。
    武当山はその後、清朝の政権の仏教と道教の融合思想を尊重する意識形態に習い、道教の聖地としての色彩を強めていきます。
    王 宗岳が(1791年 – 1795年)の間に武当山から出て、周辺に太極拳法を流布し漫遊、武当山に戻るなどの活動を禁武政策の中で行えたのも、このように道教が制限・管理・保護されていたからです。
    それよりも、清代の最も大きな社会問題は、民間の秘密宗教と秘密会党が起こったことです。そこで、清朝は自分たちが管理制限している道教を民間に推奨し、又その中で修行されている王宗岳の太極拳法である内家拳を保護しました。王宗岳は清の朝廷に大変協力的な道教の実力者でした。その反面、清朝は民間武術に対してははばかることなく包囲討伐・虐殺・凌遅[体をばらばらにして殺す酷刑]・流刑などを行い、その極まらないところはなかったというほどのものでした。このようにこの時代の複数の皇帝たちは、その帝位の間、ほぼおなじ理由で民間武術など一切を禁止したのです。
    しかし結局、野蛮な統治は野蛮な反抗を招き、八卦教・黄天教・紅陽教・羅教・三一教・大乗教・青蓮教・黄崖教などにある武術は禁じれば禁じるほど盛んになり、封建政権とは別の地下秘密王国ともいえるものを構成しました。思想において、清はたびたび白蓮・焚香・混元・竜元・紅陽・園通などの「邪教」を禁じる詔を下しましたが、道教に対しては依然として保護を加えました。その中で、武当山は公に堂々と武術修行できる場所として多くの武術の純粋な高手が、張三豐が始祖し、王宗岳が体系化した太極拳法を修行しました。そのような中で、王宗岳の太極拳経を信仰しており、太極拳法の事を陳家溝で知った楊露禅などが武当山で修行し、後に恐ろしいほど強いと有名になりました。そして楊露禅は40才になった頃、清朝のお留め武術として指南役に採用されたのです。

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