太極拳は意識で動く?そんなことをしていたら太極拳ではなくなります。
太極拳は無意識で動きます。
無意識とは何でしょうか?
無意識とは意識がないと言うことでしょうか?
実は違うのです。
意識には顕在と、潜在があります。そのどちらも意識なのです。
潜在にある意識が、自分では顕在しないで働くことが最も多く、癖や執着などに現れます。煩悩や見えない雑念なども全てそこにあります。
太極拳で言う、無意識とは完全なる純粋な意識です。無為自然と言います。
無為自然とは三昧は近いところにあります。太極拳三昧という境地で太極拳の套路ができるようになるまで修行するものです。
それを太極拳は意識で動くなどと言う間違った考えで太極拳をやっている限りは、その域に到達するのは難しいと言えます。
意識で動く間は、動きを覚える程度の場合です。初心者とっては大切でしょう。
しかし、いずれ心意のおもむくまま套路ができるようになります。ここで初めて動禅といわれるレベルになります。瞑想太極拳と言うこともできます。
座禅にも段階があるように、意識に浮かぶ想念を受け流しながら進む套路は、想念太極拳として分類し、ただ無為三昧において、動く世界を真の套路として考えます。
武道として実戦で使う場合は、太極拳は無意識の拳法です。
死にものぐるいになったときに、最も強い力として自然な動きを発するところは、深くにある生存と存在の力です。
そこから発せられる勢が、十三勢などと呼ばれている、勢です。何も13だけではありませんが。
套路において、純粋な三昧で動くことは至福の安らぎと、エネルギーを感じます。
気持ちが良くて、最高の歓喜のようなものがわき上がります。
実際の攻防の中では、いかに無心で平常心であるかということで、見える世界が変わります。
闘争本能をあらわにした場合は、交感神経が高まり、感受も視界も狭くなります。
私たちが行う、武道練習はいかに気持ちが良く、勢と勁にあふれたさわやかなダイナミックな動きができるかと言うことを練習します。
一人でゆっくり行う套路のように、いかにその状態で動けるかを、攻防で練習するのです。
套路の感覚が、攻防でも感じるようになれば、勢と気と勁の一致の完成です。
武道練習ではその一致をひたすら、多くの技の中で発揮しながら練習します。
套路と相対練習において、その差がなくなってくる事に、修行者のレベルが上がってくるのです。
套路と、相対の相乗効果が練習の成果です。
夜間クラス参加して1ヶ月。成程、教えてもらっている動作は意識を集中しないと覚えられない。それを繰り返すことでだんだん意識の集中度が低くなってっも出来るようになる(確かになっています)。きっと太極拳をつづけていけば様々な動作が自然に、無意識にできるようになるのでしょう。最初に覚えた動作が次の動作に関連して最初より少しづつ意識の集中度を必要としなくなると言う事でしょうね。これを突き詰めてゆくと、様々な動き(日常的に染みついた無理な動き)が全く意識しないで太極拳的な動きとなると言う事でしょうか。
そういった身体の動きに対して心の方はどうなんでしょうか。物事を考え判断する時、必ず意識が働いているはづです。その判断の基準は大抵自分が生きている時代の価値観に拠っていると思います。そういった価値観にとらわれる事のない人間が本来持っているであろうものが必ずあるはづで、それを得たいと常々思っています。
立禅は身体バランスを正すと同時に、心のバランス(?)を正す方法と感じています。
瞑想では「なにも考えない」状態を保つ事が絶対に必要な事であるようです。考える時には明らかに意識が伴っている(顕在化している)が、考えていない状態の時(ボケ―――としている)にも意識は極々小さい状態で伴っているのだろうと思います(でなければ眠ってしまう)。瞑想する時にも意識は大変小さい状態で在る事が必要に思いますがどうなのでしょうか。
最後にひとつ。多分そうだろうと思っているのですが、「瞑想の効果」は、ある日突然“悟りを得た”と言うものではなくすこ~しづつ自分のものの見方や考え方が変化してゆくというものなのでしょうかネ。
夜間クラス参加して1ヶ月。成程、教えてもらっている動作は意識を集中しないと覚えられない。それを繰り返すことでだんだん意識の集中度が低くなってっも出来るようになる(確かになっています)
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「意識の集中度が低くなるのでは無く、意識へのとらわれが無くなるのです。フィギュアスケートのキムヨナ選手のように、意識へのとらわれが無くなり、全体と一体になる集中度が高まります。これをスポーツ用語でゾーンと言います。逆に意識にとらわれるために、外部の環境を遮断するのも集中と言いますが、太極拳は前者の境地をめざします。ゾーンについてはhttp://zone-training.jp/zone-state.htmlなどを参考にして下さい。」
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きっと太極拳をつづけていけば様々な動作が自然に、無意識にできるようになるのでしょう。最初に覚えた動作が次の動作に関連して最初より少しづつ意識の集中度を必要としなくなると言う事でしょうね。これを突き詰めてゆくと、様々な動き(日常的に染みついた無理な動き)が全く意識しないで太極拳的な動きとなると言う事でしょうか。
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「意識にとらわれない集中度が高まるのです。一つの意識にとらわれていると、他のものが見えなくなります。人間の深くにある深層の情報を利用することを目指します。そうなると、意識へのとらわれ(排他的集中)がなくなり、もっとおおらかで楽しい境地に集中する融合的集中(ゾーン)に入っていきます。ですから、キムヨナ選手などは、勝手に心身が動きあのような集中度の高い動きができるのです。練習過程は別ですが、考えていたり、意識していたらあのような動きはできません。」
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そういった身体の動きに対して心の方はどうなんでしょうか。物事を考え判断する時、必ず意識が働いているはづです。
「心身一如を目指します。心と体は本来無一物です。融合的集中になれば、こころも体も融合し、他も全て融合的なものになります。働いている顕在意識だけにとらわれると、こころも他のことに向きませんね。当然のことです。ゾーンは、それも含めて他のことにも全て集中できることを言います。他のこととは、人間の深層にある無意識の領域も含むのです。その心につながっているときは、気持ちが良い、楽しいという感覚がそれを教えてくれます。」
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その判断の基準は大抵自分が生きている時代の価値観に拠っていると思います。そういった価値観にとらわれる事のない人間が本来持っているであろうものが必ずあるはづで、それを得たいと常々思っています。
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「価値観は千差万別です。そのようなものにとらわれない世界を目指すのが太極拳で、個の価値観はもちろんその境地に含まれる個性という大切なものです。しかしそれにとらわれないと言うことを太極拳では修行します。」
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立禅は身体バランスを正すと同時に、心のバランス(?)を正す方法と感じています。
「いいえ、中心を知ることです。中心が完全に定まれば、どのようにバランスが崩れてもそこに戻ります。人間の心身ではホメオスタシス、すなわち恒常性維持機能のことです。ひたすらその機能を高めるために立禅や、坐道で、中心をしっかりとしり、またそれで動けるようになるのが太極拳が目指すところです。」
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瞑想では「なにも考えない」状態を保つ事が絶対に必要な事であるようです。
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「いいえ、考えても良いのです。それにとらわれないと言うことです。禅宗の座禅もそうです。浮かんでは消えゆく雑念や煩悩、すなわち意識にとらわれない練習をするのです。太極拳の坐道は感覚を感じ、それに浮かぶ想念までを心で感じます。それが心意です。そこから思考し認識する事、すなわち意識をせず、次の感覚を追いかけ又感受して想念が浮かび・・・などと輪廻円転する太極の心意を思い出す訓練です。逆に「考えない」などととらわれていると、心も体もかちこちになります。逆も又真なりです。受想行識と人の心の動きを円転させることが、すなわち完全なる無、無極なのです。その無を思い出すためにに太極拳があります」
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考える時には明らかに意識が伴っている(顕在化している)が、考えていない状態の時(ボケ―――としている)にも意識は極々小さい状態で伴っているのだろうと思います(でなければ眠ってしまう)。瞑想する時にも意識は大変小さい状態で在る事が必要に思いますがどうなのでしょうか。
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「ものを考えているときの方がぼけーとしている人が多いですよ。考えにふけっていないで、しっかり食べなさいとも言いますね。外観上ぼけーとしているのは、感受を低下しているとき、又は考えているときです。どちらも感受の問題です。はっきりしているときは、考えないで、全てを感じ受け入れているということです。感覚を研ぎ澄ましているときです。何も考えないで、素晴らしいフィギュアスケートやダンスに没頭している人はぼけーとしているどころか、素晴らしい感覚(センス)と集中力を感じませんか?これがゾーンです。太極です。意識にとらわれないで、人間の感受から深層にある全てで人間が生きています。顕在化していない心の方が人間の行動や言動、思考に大きく作用しています。その心を感じながら、表層に現れた意識をただ知るだけに留める、そしてそれにとらわれないのが太極拳の修行です、意識にとらわれることを雑念・煩悩と言います。」
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最後にひとつ。多分そうだろうと思っているのですが、「瞑想の
効果」は、ある日突然“悟りを得た”と言うものではなくすこ~しづつ自分のものの見方や考え方が変化してゆくというものなのでしょうかネ。
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「頓法と漸法がありどちらもあります。突然の人もいれば、ゆっくりの人もいます。そして、見方や考え方は人それぞれの価値観です。変化などしなくてもしてもどちらでもよいのです。諸行無常です。どちらにしても常にあるものではありません。見方や価値観と認識できるのは、表層に現れたほんの一部です。もっと深いところの普遍性を知れば、そちらの方が中心であることがわかります。見方や価値観はその中で楽しむ為の素晴らしい人間性です。自由に観て、自由に価値を感じれば良いのです。しかしながら氷山の一角であることを知れば、それにとらわれることもありませんから、全く自由であるのです。そして認識できる現象世界においてですが、氷山は海の水からできがり、その先はビックバーン、後は科学者たちの見方や価値観の範囲で終点です。それらもどんどん移り変わることでしょう。しかしながら真実は実在し、誰も計り知れません。これらを解決するのが、仏教の無や、太極拳の無極の思想です。思想は思想でしかありませんから、それにもとらわれてはならないというのが、老子は言いたかった究極の経験の説明の「道には名前すら無い」ということなのです。太極拳は名前の無いもので心身を動かせる、その経験を多くすることで、その真実の世界に到達することに尽きるのです。」