「手で打つな足で打て。足で打つな腰で打て。腰で打つな心で打て」
これは大阪で、30年程前に私と武道について談笑していたときに、剣道範士九段奥園國義さんが、奥園さんの先生から教わったという一節です。
奥園さんは、私の祖父の組織で実戦剣術を教えていた私の剣の先生と私が飲食店に居るときに、どこからか突然現れた人で、後で知って警察関係ぐらいしか知りませんでした。
最近、あることで奥園さんが亡くなったという記事を見て、彼の経歴を詳しく知った程度です。
私は当時、太極拳を教えるとき、手も足も腰の動きも、心の働き(意)の後に起こるものであり、その後に勢いが腰そして全体へ伝わっていくとしていました。
剣道の世界で凄い人だった事を知りましたが、当時の生意気な私は、彼のその言葉に「そんなことはあたりまえだ」みたいなことを言って、とても話が盛り上がったことを覚えています。なぜか、奥園さんも私を気に入ったらしく、それから十回ほどは会って、奥園さんも竹刀を振り、こちらはいつも使っていた真剣と同じ重さの模造刀に、厚いゴムと皮を纏った、私の先生自家製の袋竹刀のようなもので練習がてらの対戦をしたことがあります。
柳生新陰流の転の動きと、楊式太極拳の円転の動きの共通点を説明しながら動いていると、とても興味深く見られていました。こちらは太極拳で、彼の竹刀が振り始めるのを止めたり、剣道を相手にしてたっぷりと太極拳を試させていただきました。私が習っていた柳生新陰流の実戦剣術は、太極拳と全く同じ理で動いています。不思議と言って良いほど共通しています。剣道と、柳生新陰流や太極拳との多くの相違点は、この時に相当経験しました。20才ごろ若い頃は、暴走族や怖い人たちに棒で襲いかかられることは日常茶飯事でしたが、その荒くれた太刀筋に比べると、剣道の太刀筋はとても礼儀正しいものです。どちらかというと柳生新陰流や太極拳は、その荒々しさの方が近いようです。荒々しさを転や円転でまとめているといった方が近いと思います。
しかし、今この言葉を見てみると、確かにこれは漸法と言えるもので、初心者の方は最初はやはり手で動き、次に手で動くな足でうごけ、そして足で動くな腰で動け、腰で動くな心で動けと順を追って、深きを求めていくことも必要なようです。この十年ほど前からそう思い、教え方も、この漸法と頓法を組み合わせて柔軟に行っています。
あのときは、生意気だったなあと、奥園さんのかわいい笑顔を思い出しました。