和合すれば、敵は我が身なり。
我が身は我が心の赴くまま。
心を受けるところに愛がある。
受容すれば一体になり。
迎合すれば分裂する。
分裂すれば、心は争う。
相手の感受が始まるところを先(せん)とする。
その先(せん)を聞く。
その感受を受けて我が想念を興し、行にする。
それを「枕を抑える」と宮本武蔵は言う。
人や万物の感受を聞く、それを感じ受容する能力を思い出す。
例えば人の感受は即座に想念となり、気となり動となり表面に発露する。
その感受の部分を聞く力を、自ら自身に思い出す。
相手の感受を枕とする。抑えるのではなく受容し、神(しん)で包括する想念に化し、その礼となす。
感受の受容を「仁」にて・それを自らの「神」で化すのを「義」・その発露が「礼」・「礼」によって相手の感受を受容して化したのが「義」
相手が自分を殺しに来たとき、親子のように仲良くなれるのが枕の先。
不意に打ち込まれた顔面への直突きを、自分の身と同じように化す、沾粘勁による化勁。同時に自分の手を遠くへ投げるように相手の体を押し出す発勁。
このように太極拳の後の先は仁義と礼儀である。
先は受容することであり。受容とはすでにこの瞬間に当たり前にあるものである。ありのままである。
ありのままの時が受容で、そうでないときが受容ではない。
ありのままが先であり。争いが始まらない。
その上に一体であり、相手の個性も能力も即座に我が個性であり能力である。
和合
この世界が見えると、人生の現象は陰陽師のごとく、陰陽自在である。
太極拳の技も名人のごとく、虚実自在である。