柳生新陰流は、流祖・上泉信綱が《転(まろばし》の極意を体得したところからはじまります。
《転》とは、身体と心と剣が融け合って、相手の働きにしたがって、円転自在に働くことです。この境地は太極拳の境地と全く同じなのです。太極拳も始祖張三豊が太極という極意を体得したところからはじまったのです。
相手の仕懸に対して転じて勝つ。無形の位でまず構えずに,虚を創出し相手に仕掛けさせ、それに応じて「後の先」を取る。このように、新陰流もまず敵が動き、それに応じて反撃するという後の先です。太極拳も全く同じです。
より境地を高めるというか熟練していくと、《相手を動かす》という活人剣の神髄である枕の先を得ます。太極拳では凌空勁という発勁です。
相手の虚実の起こりを誘いこむのであり、そこに吸い込まれた相手の攻撃は、自らが発す発勁と既に融合しており、何よりも早く、又、相手の力をも含んでしまうものです。
柳生では、《一刀両段》すなわち、《合撃(がっしうち)》、太極拳では《単鞭(たんべん)》という技法によく現れています。
柳生新陰流と、武当派太極拳の理論や理念があまりにも似ていることは不思議ですが、現に理論や技法はほぼ同じです。根本的なところが違っていないので、方法論に差異がでないのは当然ですが、太極拳を学べば、柳生新陰流も同じようにすんなり身に入ってくるでしょう。
また新陰流の基となっているか陰流では、理法を縣侍(中心にぶら下がり、そこを頼りとする)そして、表裏、この二つに尽きるとしています。
すなわち、縣侍は太極拳の無極の中庸の拳理。そして表裏は字のごとく、太極拳では陰陽分虚実であり、太極拳も理法はこれに尽きます。
そして新陰流では、より実践的にその運用法として《転》を説明しました。転は太極そのものです。