太極拳の武道練習では、あらかじめ、このような攻撃に対して、このような技をと決めて行う招式対錬を行うので、つい、相手の技がまだ勁道を走っていないのに、あらかじめ動いてしまい、お約束ごとのように技を掛け合うことがあるが、それを戒める。
招式練習は、このような技として、技を練習するのでは無く、その勢を練習する。従って、攻撃される側が勁道が極まる前に動いたなら、攻撃する側はその相手の場所に向かって勁を発すればいいのであり、攻撃される側の防御は、もうすでに動いているので、その勢は見破られ、攻撃をよけることができない。これは当たり前である。
楊式太極拳は、凌空勁や聴勁により相手の気勢を読む枕の先である。相手の気勢を感じたら、自らの内の動力が動き出す、しかし、まだ体は動かない。相手は気勢により勁を発する。その勁は、自分の体に向かって勁道を通り向かってくる。自分に当たる瞬間に、転動や流転の勢などを使用して、又は、様々な勁を発して防御をする。臨機応変にである。
あらかじめ予測して動く癖をつけてしまうと、実戦では役に立たない。あらかじめ気勢を予測して、相手の勁がいよいよ極まろうとしたときに、その勁を化するのが太極拳である。いうなれば、寸前のクイックモーションである。
自転車が向かってきて、それをよけようとして、同じ方に向かってしまいぶつかってしまう。車もそうである。車が真っ直ぐ向かってきたらよけようとした方に、自分も向かってしまう。これは、深層に刻まれた観念が、予測と憶測をして、それが癖になり、こっちに行くであろうと思うと同時に、体が動いた結果である。間違えた招式練習と同じで、あらかじめ決められた動きを深層で判断しているのである。
このようなことにならないために、太極拳は無為自然の拳法であるとしてなりたっている。
歩くときも、自転車が真っ直ぐに向かってきたなら、その気勢を感じて体幹の動力を発すだけにして、そして、目の前に来たときだけ、すっと、倒攆猴の動きで身をよける。大体は自転車がこちらをよけて去って行く、下手に動いたときにのみぶつかる。
車の運転もそうだ。私は未成年の時は暴走族(車の方)だったので、クィックモーションをその時から訓練している。目の前にいる車を追い抜く、または、前でスピンした車を避けるときは、予測ではなく、ぶつかる寸前まで動かず、いざぶつかるときにだけ瞬時に操作する。それにより、今まで事故をしたことはない。一度だけ、コーナーを回ったところに大量の暴走族達の車がクラッシュして山積みに止まって、全路線をふさいでおり、それを避けることはできず、止まっている車達にぶつかったことはあるが、前に急に壁ができたようなものであるので、そのようなこともあるだろうと教訓として、それ以来暴走族は命の危険を感じてやめた。
ただ、今まで、前の車がネコの飛び出しで急ブレーキを掛けたときも、普通なら避けられない衝突も、クィックモーションがあれば、難なく避けられたり、長い間車に乗っているが自宅の駐車場の壁に擦るぐらいで、一切事故はない。「かも知れない」運転は、まだ相手がとびだしていないときに、飛び出してくるかも知れないという運転である。このクィックモーションは、その運転を前提として、もしも人が車の陰から飛び出してきたときに、その動きを予測するのでは無く、相手の動きを正確に捉えて、その動きに合わせ衝突を避けることである。普段から車の運転において、そのような場面に合えば、落ち着いて、勝手な固定概念で予測せず、良く相手の動きを見て衝突を避ける訓練をしておく方が良い。私に同乗している人は、最初は驚くだろうが、クィックモーションで的確に相手を避けることができる。普段から些細な危険もそのように運転して訓練する。太極拳の招式は、そのような実戦的な訓練をするものであり、散手対打においてもカンや反射神経では無く、相手の勢や動きを正確に捉えることができるようになる。カンや反射神経は間違えることもある。有名なボクシングのチャンピオン井岡 一翔選手は、カンや反射神経を使用しているのでは無く、脳の深い部分でしっかりと相手の動きを捕らえていることが、テレビの番組で放送されていた。太極拳の招式のクィックモーションはそれと同じである。私が未成年の頃に修行した柳生新陰流もそうである。
私は、30代の頃、よく渋谷など人混みに行ったときは、人と人の間を早足で走り抜ける訓練をやっていた。相手とぶつかる寸前ですっとよけるのである。楊式太極拳の招式練習は、そのあたりをとても重要にしている。徹底的に、技の概念化を排除する。招式を巧くできるようになっても、それは、お互いが決めた、決められた動きでしかない。多くの技を行い、その勢を感じ、自らの勢を発する訓練をするのが招式の練習である。従って技の手順だけを覚えるというのは推奨しない。技が臨機応変に展開することで、多くの技を身につけることができる。それは勢のなせる業である。従って、套路はその勢を練り上げる。定式や型は技では無く、その勢の結果である。套路には多くの勢が含まれる。招式で、いざ相手の攻撃が極まったところ、その勢が自然に発せられる。普段から道を歩くときも、よく、「かも知れない」という、無意識の凌空の予測や予感の元、危険を事前に察知し、いざ危険に遭遇したら、予測や予感に頼らず、相手の勢を自らの勢として和合して動く。これが大切である。これが武道としての太極拳である。