教えは守らないから教えである。

教えは守らないから教えである。

教えようとしているものは、教えの中にはない。

教えを生み出したところにある。

教えを守るということの観念と概念が、人生において大きな意味を持ちます。

教えとは、読んで字の如く。何かを教えようとしているのであるから、その教えようとしているものを探す入口です。

でないと「答え」と言うでしょう。

禅問答のその「答え」は、例えば人生とはという問いに「指で◯(まる)」。

これが教えでなく答えであり、教えは指で◯という理由の表現された結果である。その教えは「空(くう)」と続くのです。

このように教えようとしているものは、教えの中にはない。 「指で◯(まる)という行為と表現を生み出したところにあるのです。

先人たちはある言葉を教えとして表現しました。
その言葉はその先人たちが伝えたいことの理由を表現した結果であり、ここにある教えという言葉を誰かが解釈したものではないのです。

例えば四則演算。1+1は2だけではない。

二進法では1+1=10 その他も1+1=11・1+1=101・1+1=1・1+1=0などまだまだある。

なぜ1+1は2なのか。それはあるもの(理由)を四則演算することで知ることが出来るからである。

例えば、その理由は同じものが分裂して存在しいている状態がいくつあるかを知る、すなわち分裂を知るのであるかも知れない。

例えば、同じものが分裂していなくて、融合したものであれば、1+1は1である。1+5も1である。これは融合を教えるものである。

1+1は1・1+5は1を教えるものではない。

四則演算を守って計算しても、あるもの(理由)を知ることが出来ない。

あるものとは、その演算の理由である。

1+1は3という数学がある。化学や宇宙物理学に応用されるが、1+1は2という教えを守っていれば、その答えは出ない。

しかし、1+1=2という法則、すなわち教えの理由を知ることで、その理由があって教えがあることを理解する。

1+1は3の理由をその教えから探る。

教えを守るということが1+1は2ということを守ると言うことであれば、この時点で教えは守られ、教えようとしたことは消滅している。

これが、ステレオタイプの始まりである。

教えの中に普遍性を見つけ出す。その普遍性は大いなる理由である。

この内容は、映画 マトリクスで複雑に表現されている。

マトリクスの世界では、全てがコマンドによって動いている。

コマンドは0と1の組み合わせであるが、その理由を知らなくても、その組み合わされた命令で万象が動く。教えを守ることとなる。

その命令は、行為を示唆する。

その行為の仕組み、すなわちマトリクスが教えとして構成される。

教えは、結果である。
その結果までの道筋も結果である。
その理由も結果である。
教えとして結果である。
教えは、その結果を示すことで普遍性を見いだすのである。 映画マトリクスの世界では、マトリクスの創造主の意思である。

教えを教えのまま。言葉を言葉のまま、ありのままに受け取ったときは、実は教えも言葉も全くの無意味である。

自分の中にある観念や概念によって、その教えが意味を持つ。その観念や概念の創造の源を見つけたときに、教えが教えとなる。だから教えなのであり、教えを守る時点で教えは消滅する。

もっと日常的な世界で考えてみると。

ありがとうという言葉。その意味を知らない外国人、又は、相手にありがとうという気持ちが無い人でも、ありがとうは言える。書ける。

しかし、ありがとうを言うことは良いことだ。だから守りなさいと言われる。

そこには各色(かくしょく)という概念と観念が存在する。

ありがとうを言うことは良いことだといった教えの基の概念と観念は、それを教えとして守ったものの概念と観念によって構成される。

すなわち教えを守ろうとしたとき、即座に教えが消滅する。

太極拳は、表現される動きは単なる理由の結果でしかない。

例えば、 太極拳の套路は、ビデオを買ってきて、マニュアル本を読んで、足はこうだ、手はこうだと教われば、その教えを守ればほとんどのの人がうまくできるようになる。

おかげで、とても普及したことは素晴らしいが、その教えを守ったとき、その太極拳の動きの理由と、本質的な動きの源を知ることはなくなる。

教えでなくなるのである。

その教えの源を知ったとき、教えは一切捨て去る。

例えば、般若心経である。

原文では、あらゆる無常を理解し、般若心経の教えを人々に伝え、人々がその教えをもって、般若心経で教えたい涅槃に到達したとき、最後に般若心経を捨てるとなっている。教えを捨てると言っている。

教えとはこの様に言葉のまま「教え」である。

学校の勉強もしかりである。勉強は勉強。試験は試験。

その教えから何を知るかが大事である。

生き物を殺さないという教え。守ったときにこれは教えでなくなる。

生き物? 草花は? ありは? 蚊は? ダニは? ウィルスは?

それではマグカップは生き物か? 生き物とは?

この様に、その教え自体を守ろうとすると、驚くほどたくさんの概念と観念に対する条件を覚えなくてはならない。でないとその教えを守ることが出来無い。 又は、勝手に生き物は動くものなどと固定概念化するしかない。

松下幸之助(松下電器の創業者)氏が社員に向かってこう言った。 「鉄骨は生き物です。なぜなら、10000年ぐらいビデオで撮って人間の寿命に縮めて見てご覧なさい。すこしづつ赤みを帯びて成熟して、いずれは老いて朽ち果てる。生きてますよ。」と 。

教えを守ると、この観念や概念に対しての教えも必要になってしまう。この様にいたちごっこであり観念と概念は無常にふくれあがる。

この様に、一切の観念や概念も無く、起こる現象、すなわち運命にありのままに、あたりまえに対処することが出来るようになるために、教えは守らない。

人のためになることをしなさいという教え。これを守るとどうなるか一度考えてみると面白い。 観念や概念次第で大変なことになる。地球を滅亡させることも出来る。今問題になっている原発も人のためになるという教えをただ守ったところの問題である。

観念や概念は無限に存在する。 私の場合はこの教えに対しては、人のためになることはしない。と答える。 又次の瞬間に人のためになることをする。と答える。同時でもある。

教えは単純に教えであり、答えではない。 そしてもっと言うと答えはない。 それが、真の太極拳を修練すれば分かるようになる。

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