武道の世界《太極拳三昧》

ryusui武道の世界。真に経験したものしか知り得ない世界がある。
例えば、戦時中の中国で、戦後の日本で、生死の境において身につけた武道で武を実戦した、あの少林寺拳法の創始者の宗道臣氏。
武道と名がつけば、全て同じ世界でつながるようだが、彼の場合は違う。
私が思うに、彼の世界が真の武道の世界である。
実際に生死の境で武を実戦したものの世界は独特であり、経験したものでしか分かり得ない。
スポーツ化したものは論外だが、いくら、リング上で仕合でも、また、路上においても利を得るためだけに使用された格闘とは全く違う世界である。
実際に生死をもって経験した武道は真に使える。近代では宗道臣氏が良い例だ。そして彼から本当に、生死に迫り教えを受けたものだけが、彼と同じ世界を経験する。その伝承を終わらせないためには、またその教えを受けたものが生死に迫りながら武道を経験させていく。だから、中国では、一子相伝という習わしがあったのだが、それは大昔の話であり、子も選択肢が多いので親もそれを黙認する。だから多くは真伝は途切れてしまい骨皮だけになり、今は形式だけ一子相伝が残る。一子相伝は自分の子供だから好きにできるというエゴな世界でもある。だから、今は真に武道を身につけたいものにだけ生死における真伝を教える。だがほとんどがそこから逃げて、表面的な形しか得ない。
生死の境の武を経験したものは、お互いに世界が通じ合うから、武に対する感覚も人生観も一致する。
私も多くの武術系の会からお誘いを受け一度は参加するが、長年毎年参加しているのはただ一つの武道家の集まりだけである。その会の主のことが大好きだからである。長老は、日本では最も恐ろしい世界であるとも言っても良い麻薬取締の世界のプロフェッショナルに、数十年と長く公式に武道を教えている。
自衛隊などは実戦は今はないが、麻薬取締の世界は毎日が実戦である。裏世界を覗けばどれほど危険かはわかるのだが、どうも一般人には見えないらしいが。激烈な世界である。恐ろしいとしか言えない。
そんな者達に教える武道は生半可であったなら、教えられたものは命を落としかねない。
私の祖父の世界も、戦後の大阪で縄張りを広げ成功した集団である。今では想像もできないほどの、多くのものが命をやりとりをして、すべてにおいて生死をくぐり抜けたものだけが生き残ってきた。
祖父は私への愛から、私にそのような世界の武道を身につけようとしたらしい。最初にもらったおもちゃが、模造刀であった。太極拳の師も自分の意思で来たと言うが、祖父からの派遣でもあったのであろう。
祖父から与えられて経験した武の感覚が通じる武道家には、数人程度しかあったことがない。宗道臣氏もその一人である。彼とは二度会っているが、何も話さなくても親せきの大好きなおじさんのような感覚があった。少年から青年期に教わったプロレスの師匠(祖父の組織の先鋭戦闘隊長)、実戦剣術の師匠(京都の老舗任侠一家の用心棒)と全く通じるところが有った。そして、我が師の王師、そして今私が懇意にする武道家達。通じ合うのは、皆同じく心の底である。
そこにしか真の武道の世界は無いと言っても良い。その武道家達の教えは強烈であるから、なかなか理解されない。普及させるためには、その世界を封印することもある。それは当然であろう。真っ直ぐで鋭い光のようなその世界は武の極みである。しかし、真剣についていくものには確実に伝承されている。
私は心からその武道家達といるだけで楽しい。通じ合っている。拈華微笑、そのような世界がある。
しかし、その世界の入り口はとても易しい。私はそこからゆっくりと人に伝える。
私の師や、武道家達が、子供の頃ゆっくりと入り口に入っていったように。
どこへの入り口か?それが大事である。間違えれば、入ったところは違う世界であることを後で気付くだけである。ただそれだけのことである。入り直せばいいのであるが、中にいるとなかなか他の世界がわからないのも理解できる。
だから多くの世界に真剣に、かつ気軽に入っていくことも大事である。入ればわかる。
私は本当に多くの世界にそのようにしておじゃましてきた。今でも続けている。
武道の世界とひとくくりにせず、その質を見極めること、それが大事である。大きく違う。それを知る。
これからも、真の武道家と巡り合うのが本当に楽しみである。

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