元・明代に生きた遼東(遼寧省)出身の道士で仙人。字は君宝、幼名は全一。張三豐(1247年 – ?)が技を学ぶために少林寺に入門しています。
張三豐はとても文武とも優秀であったため数年を経ずして首席になりました。
彼は道教の道を求めて、少林寺を出ていきました。
彼は、湖北の武當山に至ると、そこは天の柱のような峰が奥深く静まり返り、しかも清冽であり、無為自然な心身を求める神仙の道がある龍の峰であるとして、中でも3つの峰がずば抜けていて、青々として素晴らしいものであったと記しています。
彼は、神仙の道を求めてここに隠居して十段錦などの内丹術や、動功として内家拳法(太極拳法)を創始しました。
このことは、黄宗羲が書き残した『王征南墓誌銘』で記されています。王征南は明末の1617年に生まれ、清初の1669年に亡くなった人物で、内家拳法の他に弓術もこなしたので、彼は明軍の武官となりました。やがて、明朝が滅亡すると清朝に仕えることを嫌い、隠居して失意のうちに亡くなったといわれています。この生涯に同じ志を持った黄宗羲が共感し、墓誌銘を書きました。(黄梨洲)【黄梨洲は雅号で、本名は黄宗羲といい、明末・清初の大学者として知られ、「考証学」の祖です。専制君主制を批判した《明夷待訪録》は、当時としては民権を論じた進歩的な書で、近代になって彼は〝中国のルソー〟と呼ばれるようになり、前記の本は〝中国の民約論〟と称されたほどの人です。)その彼の書いたことを伝説で事実ではないというものも多いのは、色々な歴史的事情があるのですが、ここでは割愛しますが、彼のような現実主義者がこのような嘘を書くことはないものと考えるのが自然です。その中で太極拳の祖といわれる張三豐を「少林は外家に至る。その術は精なり。張三豐は既に少林において精なり。後にこれを改変して、これを内家と命名す。それを得た一,二の者は十分少林に勝る」と記しています。
このことは崇山少林寺の内家で修行されていたものを内家拳、外で修行されていたものを外家拳と呼んでいたことにも通じます。(宗門との意味合いで、禅宗の教えにて修行するものを内家、そのような教え以外のものを外家と呼んでいただけです。)少林はその教えに反するようになったが、その精なる術を張三豐は完全に会得して、道教を求めこれを改編して今度は、道教内において内家と呼び始めたものであり、これからすると少林寺はこの時点で外家であるということになっているのです。そして、張三豐が道教理論と融合させて編み出した拳法は少林寺に勝ると記しています。それを後に会得したのが王征南であり、その弟子達を武当山に残し亡くなりました。
このように武当山という道教の聖地で、崇山少林寺のように、宗門の行として始まって錬磨されてきたのが王流楊式太極拳の最初の源です。