太極拳は道教の理念を武道の中に多く取り入れています。
道教の祖師は老子ですが、彼の「無用の用」という概念は有名です。
例えば、太極拳の套路で、広い公園で大きな大地に立っていますが、大地の内で使っているのは足で踏んでいる部分だけです。だからといって、足が踏んでいる部分だけを残して他が無くなってしまったらどうでしょうか?奈落の底に脱落ですね。このように踏んでいるところは用、踏んでいないところは無用、次に踏んだところが用であり、踏み終えたところが無用に変化するのです。これが太極拳の歩法です。
このように、一見役に立たないように見えるものが実は役に立っているということが、「無用の用」なのです。
そして、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した「不易流行」という概念です。不易とは変わらないものです。それを知ることがなければ、大地すなわち基礎の部分がわからないと言うことです。流行は変化です。変化を知らないと新たな風が吹きません。しかも松尾芭蕉は「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるといっています。太極拳の套路が滔々と流れるように、変化が不易となり、又新たな変化が生まれ、過去の変化は不易となるのです。このような動きを套路の中に求めていきます。
以上のどちらも太極思想の陰陽和合の考え方なのです。
不易とは変わらないものです。太極拳は不易を滔々と延々と繰り延べていきます。それで攻防を行うのです。
とてもわかりやすくいうと、例えば年をとっても普通に人間として健康であれば歩けます。これが不易です。
ところが、走り回れとか、重いものを持ち上げろとかいわれても、誰もができるわけもありませんし、若い頃はできたけど、できなくなったということになります。これは不易ではありません。
太極拳はこの不易を変化させて不易を生む運動理論です。不易流行を磨きに磨いていく武道なのです。
諸行無常という言葉もありますが、諸行は移り変わります。太極拳の套路や攻防もそうです。
その一つの場所や時代にこだわったときは、そこに留まりその場所を変化させていくしかありません。
それが次の流行に移ることなく、不易に留まりその不易を鍛えて変化させる事になります。
そこのその場所その時代にある、筋肉や運動能力、それをただ鍛えて変化させることで、その場所と時代に留まろうとしますが、時代は移り変わり、その場所に有った諸行は無常に消え去っていきます。
太極拳は死ぬ間際まで使える武道です。年をとると健康であっても、重い剣や刀は持てないかもしれませんが、自分の身体にある年相応の骨や筋や肉は使うことができます。
このように太極拳は、対錬や散手などの一見相当激しく見える練習も、実際にやってみると相当な年齢を召されている方でも疲れることも怪我もなく練習ができるのです。
そして一度思い出した不易な動きは、心身が忘れることがないのが太極拳の大きな魅力なのです。