エピソードは、修行者が城壁の中にある町の喧騒の中では修行ができないと、城門を出ようとしたところで、外から入ってくる維摩居士を見つけてどこから来たのか尋ねました。
すると「道場から来た」という返事です。静かな修行の場を探したいと考えていた、修行者は弾んで「道場はどこにあるのですか」と尋ねました。「修行をするという直な心があれば、どんな所でもそれで道場、修行の場だ」と答えました。
静かな場所でなければ修行はできないと考えている修行者の心を観て、その言葉を発しました。
太極拳を修行するのは、何のためでしょうか?太極拳を修行していつかは理想的な世界に到達するのではありません。
今ここに修行する素直な気持ちがあれば、そこにはすでに無為自然の理想的な世界があります。
曹洞宗の開祖である道元も、「修行の先に彼岸というものがあるのではない。修行するその中に彼岸というものが存在する」と言い続けていました。
太極拳の坐道は、ただ何も考えないで、いつかは悟りを得るための静坐ではありません。その静坐をして自らの心身を観察して調整し、その内にある生命力が生み出す気と勢を練り上げていくものです。その座る姿と行為そのものが無為自然の境地、すなわち涅槃そのものなのです。
曹洞宗の坐禅も、何も考えないで悟りを得るための坐禅ではなく、坐禅をする姿こそが仏の姿であるという「黙照禅」(もくしょうぜん)であり、これとも通じます。
ただ、太極拳を練る、そして立つ、座る、動く、伏せる、その全てのその実直な行為と心が、すでに涅槃であり、無為自然であり、そしてその場である、道場なのです。
太極拳を学ぶものは、道場で心と体を、純粋で素直な刹那の命を輝かせることが全てなのです。ただそれだけです。それでそこが道場になり、悟りになり涅槃になります。これがわかれば、神明に達します。
音楽を聴きながら套路をしても良いのですか?
まず結論から言いますが、どちらも良いということです。