簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法(単行本)

00001

簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法(単行本)  (00001)

定価(税込)
¥3,080
販売価格(税込)
¥3,080
在庫状態 : 在庫有り
〓〓〓真の太極拳を学ぶ教本〓〓〓
現在、世界中で普及する太極拳は、現在の中国政府が健康体操として制定したもので、制定太極拳とも言います。特に簡化二十四式太極拳は最も普及しています。
しかしながら、古武道である太極拳を制定して体操化した時点で、武当山の内丹修行者の導引術として発達した「宗門の行」である多くの技法は全く失われています。
特に楊式の太極拳を基にした二十四式や八十八式の制定太極拳は、形だけが残され、「宗門の行」として行われていた太極拳と形はほとんど同じですが、歩法や勢い、気の発し方、型の繋ぎ目、型の動きなど全く違うものになっています。
簡化二十四式は腐っても楊式の太極拳の形を残しており、誰でもが簡単に動くことができるもので、太極拳の入り口として最適です。
しかしながら、体操のような太極拳の形をまねたとしても、多くの普及型の太極拳愛好者に、腰や膝、首などの故障する人が多いのも実情です。
本来の太極拳は、座って坐道で自然体と中心を練り、立って腰と股、膝と首などの捻転を練り、気の通り道を経絡により練り上げて行きながら、套路という総合練習を行うものです。それらをおろそかにして、ただ単に体操として太極拳を行うのであれば、太極拳の皮だけを被った体操としか言えません。
書籍「簡化二十四式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法」は、とても深くて重要な領域を最初から練り上げながら、二十四式といえども、とても優れた導引術を身につける入門編です。
独特であるように見えますが、今日本で普及している現在の中国政府が政策として制定した太極拳自体が、「宗門の行」である古式の太極拳から見ると独特であるとも言えます。この書籍を教本として太極拳を学べば多くの理解を得るはずです。
現在簡化二十四式などを学ばれている方は、今の形をせっかく覚えたのですから、動きがやや違うから、独特だなどと排除せず、その形の内にある骨肉を身につけることを求めれば、形も荘厳な内容のある質の高い太極拳に練り上げることができます。形に拘らず、太極拳は十三勢と言われている「勢い」を根幹とする武道ですから、その勢いを得て結果として形があることがわかれば、自ずから古式の素晴らしい真の太極拳の形になります。
〓〓〓 付録 〓〓〓
〔付録〕太極拳BGMダウンロード
世界中で販売されている、太極拳BGM3曲と、本書のために新たにリリースされた1曲、合計4曲フルバージョンの楽曲が付録です。
単行本《簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法》と合わせてご利用ください。リピート再生でエンドレスのBGMとして使用できます。
〔※ダウンロード環境は、各自でご用意下さい.Windows/MACのPCでダウンロードが可能です。)
■収録曲〔エンドレス再生対応〕
①TripMu  7分19秒 吐納・站椿・内丹など
②TrinpHigh 6分56秒 歩法・甩手など
③TripNirvana 7分19秒 運気・坐道など
④Taichi24 6分23秒 套路など

 

数量

“簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法(単行本)” への6件の返信

  1. こんばんわ政樹先生。今日の教室での質問(気とエネルギー)の中で私が言っていたのは、本(骨の髄)の123,4頁「経絡とは気の通り道で・・・・。気とはエネルギーの動きの事です。」のところです。読み替えると「経絡(神経?)とは気の通り道で・・・・。気とは勁の動きの事です。」と解釈しました。つまり気はエネルギー(勁)を導くものではないのでしょうか。気(意思)の出所はどこか。西洋医学の視点を重視する現代人は脳と思っているでしょうが一昔前は心臓と思われていました、多分。でも、西洋医学とは異なった視点からは気の出所は腹(丹田)にあるとしているのではないでしょうか?そういう風に考えるといろいろな事が腑に落ちるのですが。

    1. まず解釈は、まずあらゆる正確な情報がベースに無いとできません。老子は、そのことを「道には名前すら無い」と説いています。言葉で表すことができないほど、無限で無始久遠なものなので、人間が考えることのできるようなものでは無いのです。しかし、無為に自然と心を通わせ、即ち、自然と同じだけの情報を共有すれば、それは言葉では無くすべてわかると言うことです。太極拳はその境地を経験するものです。その境地まで導引された太極拳を動けるようになれば、無為に自然と情報を共有できます。それからあらゆる解釈が腑に落ちると言って良いでしょう。例えば、フィギュアスケートの3回転半を成功させたときの、心の状態、気の状態、体の感覚はどのようなものですかと聞かれても、言葉でなど表すことはできませんが、限られた言葉を駆使して表現するのです。しかし、この全ての情報を保有しているのはそれを経験した人間だけです。しかし、その経験の無いものはその言葉を聞いて、自分なりの解釈をするわけですから、到底その経験を言い表すことなどできません。それと同じです。道に到達する。太極拳に到達する。そこまで導くのが導引です。その経験ができるようになれば、全てがわかります。
      解釈は全てその人の持つ情報(心)によって成されるのですが、その情報は本に有る文章だけで無く、自分の周りの環境との関わり、そして自分の内なる経験によって形作られるわけですから、経験をあますことなく確かに感受する事によって、その基本情報は正確になります。従って「骨の髄まで」即ち、余すこと無く、太極拳を練り上げて全てを経験してあらゆる情報を正確に心に発露してから多くのの解釈をされることをお勧めします。

      質問にお答えします。

      (こんばんわ政樹先生。今日の教室での質問(気とエネルギー)の中で私が言っていたのは、本(骨の髄)の123,4頁「経絡とは気の通り道で・・・・。気とはエネルギーの動きの事です。」のところです。読み替えると「経絡(神経?)とは気の通り道で・・・・。気とは勁の動きの事です。」と解釈しました。)
      おはようございます。読み替える?読み替えること無くそのままで良いと思いますが。
      経絡と神経は別のものですし、気と勁は別のものです。ですから次の「つまり」には行くことができません。

      (つまり気はエネルギー(勁)を導くものではないのでしょうか。)

      ( 気(意思)の出所はどこか。西洋医学の視点を重視する現代人は脳と思っているでしょうが一昔前は心臓と思われていました、多分。でも、西洋医学とは異なった視点からは気の出所は腹(丹田)にあるとしているのではないでしょうか?そういう風に考えるといろいろな事が腑に落ちるのですが。)
      気と意思は別のものですから、これもどうしようもありません。意思は、何かをしようとするときの元となる心持ちであり、言動の直接の原因となる心理の作用です。気とは全くの別物ですが?

      経絡は気の通り道です。気はエネルギーの働きです。エネルギーがあるものに働く場合、その働きのことを気と言います。即ち丹田に気を落とすなどの言葉は、丹田でエネルギーがよく集まって働いているとのことです。丹田には中丹田、上丹田とあります。自然な勢いを起こすためにエネルギーの働き、即ち気を活発にする場所です。これは太極拳を経験すればよくわかります。そのエネルギーの働きにより、エネルギーには質量とスピードがあります。即ち質量とスピードが経絡を巡ることによって、勢いが起こります。経絡は人間の体の気の道筋ですから、そこにエネルギーの働きが巡ると、自然と体に勢いが生まれるのです。それが「勢」です。そしてその勢は、人間を含めあらゆる森羅万象の状態を変化させるのです。これが勁です。即ち結果です。
      全て太極拳が神明の域に達すれば、全て言葉では無く腑に落ちます。言葉に言い表せないが、言い表した言葉の氷山の一角の下には、大きな氷山と大海、そしてその星、宇宙が存在するということです。
      よろしいでしょうか。こういうことを教えてあげたいのですが、まず、しっかりと太極拳の套路が自然な動きで、無為自然に動けるようになってからにしたいと思います。
      そろそろ、うちの門下にも数名そのような入り口に立っているものもいるので、そのような教学もスタートできればと思っています。石山さんは、まず套路をある程度まで極めましょう。解釈や腑に落とすのはそれからの方が良いと思います。そうすれば、言葉では無く経験により解釈がはっきりとし、自然にあたりまえにありのままに腑に落ちます。

  2. 政樹先生、回答ありがとうございました。
    確かに言葉にできない世界はあると思います。大変感動した時の事を言葉で表現できにくい事などその最たるものでしょう。又、老子が得た世界(タオ)が道教という宗教となり、釈迦が解脱した世界(涅槃)が仏教という宗教となり、アッラーの啓示をムハンマドが預言として伝えたものがイスラム教という宗教になった時、例外なく混乱を招いています。開祖の言葉を受け取る弟子の解釈・思いが弟子によって異なってしまう事によるのでしょうが。
    しかし、言葉や文章がなければ開祖の教えはごく限られた範囲にとどまらざるを得ないことも事実。そこに悩ましいところがあるとしても言葉・文章は何かを求めるものにとっては大きな手がかりであり無視できるものではありません。

    気に付いては

    これは理解できます。気は力(勁?)を導くものと解釈できれば。
    経絡についても神経ではないと言う事で、経絡=神経という私の独善的解釈のようでした。
    そこで勁の事ですが、太極拳で言う勁とはごく一般の日本人が理解できる言葉で言うと何に当たるのでしょうか。エネルギーというよりも力かなと思っています。ただ、強い勁とか弱い勁というのはないのでしょう、多分。人誰しもが持っているもので勁を如何に使うか、導くかによってより大きなエネルギーを発すると言う事でしょうか。それが出来るのを妨げているのが文明人の身に着けてしまった知識とか、常識、固定観念と言う事なのでしょうか。
    最後の疑問。それでは日常(太極拳に関する言葉、文章でも)頻繁に使われているエネルギーの事を太極拳では何と言い表しているのでしょうか。エネルギーという単語自体英語圏のものなので???なのですが。

    何かと面倒くさい質問で申し訳ありませんでした。僕としては太極拳がこの年になっても身体の変化を実感させてくれるので大変気に入っています。今後も教室で教えてもらったことを自分なりに咀嚼して続けてゆきたいと思っていますのでよろしくお願いします。

    1. ご存じのとおり、もちろんあらゆる表現の一つとして言葉を多用しています。しかしこれも単に氷山の一角です。後は、その一角を見て本質を悟ることが大事ですね。しかし、拈華微笑という言葉のとおり、太極拳においてはまず同じ経験をして、その共通の心意を持つことが大事です。釈尊が華を拈ったら、その心意を理解して微笑した弟子の話です。その他のものはそれを全く理解できなかったのですが、その花を拈るという行為は誰が見ても同じものです。言葉も同じことが言えます。その理解があれば言うことはありません。

      まず、勁は無理の無い自然な力です。一般の人が理解するためには、自然な力と無理な力の違いを自覚できる経験をしないといけませんが、お母さんが子供が車にひかれそうになったとき車を突き飛ばしたり、火事場におばあさんがタンスを持ち出した力と言いましょう。もっと身近では、楽しいことのある場所に向かうときに我を忘れて歩く力です。道ばたの花を楽しみながら歩く力です。ところが、歩かなければいけないとして重い足を引きずる場合は拙力です。前者は疲れなく軽やか、後者は疲れて重いですね。又、子供が無邪気に遊んでいるときの力です。又階段で転びそうになったときに体勢を立て直すときに発揮される力です。あげるときりがありませんが、太極拳ではその無為の心の働き「意」のみを発動点とします。自然な力は、心の働き(意)によって、その発勁点にのみ力が発せられます。それを勁と言います。無理な力は、その発動点に力を発揮するために、どこかの場所に力を発揮しなくてはなりません。そればかりかその場所に力を伝導させるために、その経過点にも力が必要です。意志力や、筋肉を動かそうとして発揮する力では無く、心の働き(深層で子供を守りたいという心)で無為に発揮される力のことです。逆に無理のある不自然な力のことを拙力としており、勁と拙力は力の区別です。太極拳の場合は、普通に力という場合は拙力となります。エネルギーは能源と言います。力を出すためにはその源「能源」が必要です。そしてその力は何らかの効果を生みます。それが「能」です。
      詳しく全体像を説明しましょう。

      太極拳においては、まず「神=しん」があります。神とはこの宇宙の存在理由と考えてみてください。森羅万象がこの世に存在する純粋な仕組みのようなものです。難しくなりますが、太極拳経では、無極から太極の下りで説明しています。人間の心には人間を超えた自然の心が宿っていると考えています。自然の心とは無為です。自然とは字のごとく、自ずから然る(ありのまま)ことです。人間は人間の然るべき心があります。ありのままであたりまえの心です。人間が何かしようと意識を持つことの無い心ですから、自然心とも言います。太極拳では、その自然な心のことを「神」とし、それ以外の心のことを単に「心」と言います。心意とは心とその働きのことですから、意は心の働きのことを言います。「神」も心ですから、「意」によって太極拳は動くのです。仏教で言う「受想行識」は心の働きの時系列ですが、人間がその心の働きを認識「識」するまでに「受想行」が深層で起こっています。大脳生理学でも、精神医学でも同じ立場です。その「受想」によって動く「行」のが太極拳です。その「受想行」は意識(心の働きを認識する事)に上がる前の心の働きです。意識で動くと言うことは、自分が認識した心でしか動けないことになります。言葉と同じで、自分が知っている言葉の概念や価値観でしか、ものごとを判断できないのと同じです。言葉というのは認識された共通のものです。しかし、その言葉の奥には多くのものが存在します。ファミレスの心の無い店員が裏で舌を出しながら「ありがとうございます」というのと、子供を助けてもらった母親の「ありがとうございます」は、認識される言葉は同じですが、その心は計り知れません。それどころか、ファミレスの店員だから、子供を助けてもらったからといった認識をしても、心はこのステレオタイプにははまりません。従って意識で動いている限りは、独りよがりの太極拳になるでしょう。意識に上る前の「意」を同じように経験してこそ、その太極拳は同じ動きになるのです。言葉も同じです。従って仏陀の言葉も、仏陀と同じような心をもってこそ本当に理解できるものなのです。拈華微笑が宗教の真意です。現在の宗教とは、その人の特定の価値観によって、都合の良いように解釈されているのがほとんどです。

      森羅万象に宿るエネルギー、即ち、能源ですが、これは宇宙の総量は変化しないと考えられています。太極拳は、神がそのエネルギー(能源)を働かせて、何らかの能(効果)を起こすわけです。
      太極拳においては、エネルギーは自分の内にあるものを利用するだけでは無く、環境にある森羅万象、そして相手の力(拙力を含む)などを自分のエネルギーにすることができる技術(借勁)などもあります。従って、太極拳においてはエネルギーを重視しません。エネルギーはどこのものでも使うことができるのです。自分の内にエネルギーがたくさん無くても良いのです。自然や相手から自由に使用できます。ですから単に能源です。相手が押すなどの勁を発して、我に効果を及ぼした場合、その効果を100としてそのまま受けると、我の0は−100の効果を受けます。太極拳を修練すると、その-100の効果をエネルギーとすることができるというわけです。又はそれを増幅させることもできます。相手の100を200に走らせる(走勁)などがあります。強い勁というのはありませんが、消耗が無ければ勁自体はそのままのパワーになります。太極拳では発勁されていると言います。発勁の度合いが強弱です。
      従って、神が能源を能(効果)に向かって働かせるですから、その働きのことを「気」と呼び、その気が人間の生理機能である「精」の内にある経絡などを巡り「精」全体に勢い「勢」を生み、それが自然な力(勁)となって発揮されます。このようにして発揮される力を他の力と区別して「勁」と言います。その神によって能源から発揮された効果までを「能」と言います。日本の伝統文化にある「能」も同じです。能の動きも本来は神がかりに動かされるのです。人間の意識や力によって動くのでは「能」ではありません。太極拳も同じです。
      余談ですが、例えば、邪心が能源を何らかの効果に対して働かせた場合、その働きを邪気と言います。天が何らかの効果(能)に対して能源(エネルギー)を働かせた場合、それを天気と言います。

      色々と言葉を多用しましたが、実はこんな事は、真の太極拳を極めれば、自分で全てわかることです。経験したことに相当する氷山の一角である言葉が、太極拳や内丹の世界に残されているだけです。
      頭でいくら言葉をつなぎ合わせても、全てを説明することなど到底できません。しかし、その経験に相当するような言葉は山ほどありますから、これからも言葉を表現方法の一つとして行きますので、遠慮せずどんどん質問してください。

コメントを残す