音楽を聴きながら套路をしても良いのですか?

まず結論から言いますが、どちらも良いということです。

どちらでも、おおらかに滔々とした套路が行えるというのが太極拳の向かうところです。

太極拳は、太極といわれるように混沌とした世界を全て融合して和合するものです。

この私たちが生きている実際の毎日の社会そのものも、混沌とした世界です。

よく、音楽を聴いていると心が定まらないし、意識が散乱するので、套路をするときには音楽を聴かない方が良いといわれる場合があります。

座禅でもそうですね。静かにしていないと心が定まらないといわれます。

しかしよく考えてみてください。

それでは、何かの条件が定まっていないと、真の套路も座禅もできないということになります。それでは何のために太極拳や禅はあるのでしょうか?

どちらも、この人生を楽しく生きていく事ができる真の自分を思い出すための単なる手段以外に他有りません。

そして日常生活の中で、修練の賜を心と体に活かしていくものです。

それなら、パンクやハードロックが流れていようが、戦時中であろうが、爆弾が落ちてきても、暴漢に襲われても、套路のようにまろやかな心や、座禅のように穏やかな心でいなければなりません。

特に太極拳は、全てを和合していく武道ですから、より、全てのものを融合できるだけの心意を思い出していく修練です。

それにもかかわらず、套路をするときには音楽を聴いてはいけないと断言する人がいるならば、その人は太極拳を知らないといいきれます。

なぜなら套路は太極だからです。あらゆるものと融合する心意とその動きで修練するからです。音楽ごときでそれが妨げられてはなりません。

音楽を使用する場合は、直感的に深層に働きますので、神(純粋な心)と精(肉体や精神)を結びつけていく糸(旋律と音の流れ)を感じながら動くことで、表面的な歌詞や音や声をもその直感に融合させて動けるようになります。

そうなるとハードロックでも套路はできます。とてもまろやかに穏やかにです。

これが太極拳の向かうところです。

音楽の音や声は、現象であり、例えば、自分に攻撃を加えてくる相手です。それを音楽の底にある、すなわち相手の心の深くにあるものと、自分の神(しん)を融合させることで、その音も声も、すなわち相手の攻撃もすべて和合させていくのです。

もちろん風の音も、木の音も良いでしょう。又完全に静かでも同じです。人間であるという現象があります。套路はそれらを全て和合して一体になることです。音楽もそうですね。

音楽が流れていて、もし套路が行えないなら、まだまだ太極拳が使えるようになるまでは修行が必要です。

しかし、初心者のうちは、套路も座禅も音楽を聴かないで静かな場所でやる方が、套路や座禅が向かう無極や三昧の場所の感覚を、「楽」に経験することができるのも事実です。又、自分の心身の疲れを癒すときには、もし音楽が邪魔になるようなら静かな方が良いのでしょう。しかしそれはどんどん太極から逃げて、偏極していくだけになります。偏極は心身に病を引き起こします。

套路や座禅の向かうところは静かで穏やかであり続ける避難や癒しの場所ではなく、激しい雑踏の中でも、自らがいつでもその雑踏を含む全てを融合できる無限の場所です。

ですから、音楽も聴くも良し、静かな山の中で自らの心のざわめきを探すのも良し、新宿や渋谷の雑踏の中で、騒がしい人の声を聴きながらでも、套路を練習すればよいのです。套路はどこにいても、その心意と、その心意で動く行(行動や言動)の修練です。色々な環境で是非套路ができるように目指してください。

そして、日常生活全てが同じような心意で流れるようになれば、いつでも心身は癒され、楽しくて穏やかで、健康が促進されます。

套路をしているときだけ癒され、日常生活で疲れていては本末転倒です。日常生活は音楽と想定して修練するのも必要です。

そして、本当に静かにして、楽に深い自分と巡り会うのもたまには良いかもしれません。しかしそれは条件ではありません。

それを必ず理解しておいてください。その理解がないと、太極拳は偏極拳になり、心身や人生に全く逆の現象が生まれます。

これが、太極拳経の末尾にある「所謂差之毫釐。謬以千里。學者不可不詳辨焉。是為論。」なのです。

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