純粋、何一つ囚われも曇りもない、当たり前であるがままの状態。
純粋(神=しんの性質)を持続させる。 例えば、太極拳の套路をゆっくりと長く続ければ、それはいづれはわかります。
日常生活で純粋を持続させてみれば、とても面白い現象が起こります。
もしそれが出来れば、一瞬にして周辺の世界も変貌します。
見るものも感じるものも包括した融合した感覚を得るはずです。
面白いように、思った通りに現象が起こります。
しかし、ここがみそです。面白いところです。
純粋でいると言うことは、自ずと思うことが変わってくるのです。
それで、思ったことが思ったとおりになるのです。
太極拳の∞運動と同じく、スパイラルを描いて純粋が深まります。
純粋はあらゆるものと完全に繋がっています。
純粋から揺らぎが起こり動きが始まります。そしてそこに戻ります。
基が分かっているから、基にすぐに戻れる。又持続させることが出来るのです。
嫌いだった人がかわいく見えてきたり、拘っていたことが単にひとつの楽しみに変化したり、右往左往していたことの全てが、無常であることを発見し、笑ってしまったり、目の前に起こる出来事が全て生きていることの素晴らしさの付録としての楽しさであることを感じるようになります。
それが平常心です。心を無にして平常心になるのではありません。
どこに我の本質が有るのか?
それを見つけ出すことが不動心という純粋に到達する近道かも知れません。
純粋の作用は、人間として生きている。ただそれだけです。
純粋の本体は、万物一体として存在している。ただそれだけです。
これ以外のことが起こっても、作用では、人間として生きていれば全くの平常心。死ぬこと以外のどんな問題にも微動すらありません。
本体では、生きていなくても良いのです。万物の一体として存在していることの喜びが、生命を守ることで消滅する様な場合は、純粋意識は生命を守るよりも万物の一体としての存在を優先します。
命すら惜しくないのです。命をかけた生き方はここにあります。
死んで生きる。ここに素晴らしい生命力あふれる人生が待っています。
死をも恐れない、楽しさ。
これが太極拳のとてつもない強さです。