「直心是道場(じきしん これどうじょう)」とは
「素直な心があれば、どこでも修行の場になる」という意味の言葉です。
あるとき、一人の修行者が「都会の騒がしい環境では修行ができない」と思い、静かな場所を求めて街を出ようとしていました。すると、門で維摩居士(ゆいまこじ)という高僧と出会います。
修行者が「どこから来たのですか」と尋ねると、維摩居士は「道場から来たよ」と答えました。
「それはどこにあるのですか?」とさらに尋ねると、彼はこう言いました。
「素直な心さえあれば、どんな場所でも道場、つまり修行の場になるのです。」
この言葉が「直心是道場」という教えの由来です。
つまり、「静かな場所じゃなきゃ修行できない」とか「条件が整ってないとダメだ」と考えているうちは、本当の修行になりません。
大事なのは、今の場所で、素直な心で、真剣に取り組むことです。
道元禅師もこうおっしゃっています。
「修行を積んだ先に理想の世界(彼岸)があるのではなく、修行そのものの中に理想があるのだ。」
曹洞宗の坐禅は「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、「悟りを得るためにするもの」ではありません。
坐っている姿そのものが仏の姿だとされます。
私たち一人ひとりは、もともと「仏性(ぶっしょう)」と呼ばれる仏の心を持っています。
だからこそ、それを特別な時にだけ出すのではなく、日常の中で自然に出していくことが大切なのです。
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音楽を聴きながら套路(とうろ)してもいいの?
結論から言うと、どちらでも大丈夫です。
大事なのは「心の姿勢」です。
音楽があったほうが自分の心が整い、気持ちよく動けるならそれも修行になります。
逆に、静寂の中で自分と向き合いたい時は、音楽なしも良いでしょう。
要するに、「何をするか」よりも「どういう心でやるか」が大切なのです。
まず結論から言いますが、どちらも良いということです。