昨日の武道クラスでは、久々に竹林の中にある、厳かな場所で練習を行いました。
そこでの実戦を想定した練習は、王師から聞いたことのある武当山での練習風景を彷彿させました。
そして、思い浮かんだのが、中国の神話です。
中国の神話に登場する炎帝は、多くの経験と実証を重ねていく神です。
医学において、炎帝は「神の鞭で草木を打ち、そしてなめて、その草木が毒か薬かを知った」と伝 えられています。草木をなめて日に何度も毒にあたって死にかけたのです。そして多くの経験を蓄積したのです。
武道においても、人類に徒手の格闘が始まってから、絶えず、経験と実証が積みかさねられました。
太極拳の創始者である張三豊は、古くから伝わる武道を何度も何度も実戦に用い、経験を積みかさね、実証を重ねていきました。
若い頃は何度もそれで死にかけたり、また相手を倒したりしながら、それが使えるものかどうか。また、どうすれば使えるのかを検証し続けました。
医学において、その炎帝の経験の時代が過ぎると、それらの経験を引き継ぎ、経典として纏めます。その役目が黄帝です。
黄帝は『黄帝内経』という医学書を造り上げます。
張三豊の中でできあがった武道は一つの経典となり、彼の内に備わりました。
その後はその内経が自然と働き、その理を太極に見つけ、その後は太極拳と共に生きたのです。
その理のみを書物にしたのは王宗岳です。
その炎黄を引き継ぎ、今太極拳を生涯の友とする人たちは、炎黄の裔であるといえます。
従って、その炎帝の経験を経験し、黄帝の内経を修めることこそ、太極拳の修行です。
ですから、実戦的用法を経験して、その理を知ることを無くして、楊式太極拳の修行を成し得ません。
私たちは、実戦を想定した動きを重点に捉えます。それは、炎帝の意です。
そして、その理を知ります。黄帝の意です。
書物や言い伝えに囚われることなく、炎黄の裔として今太極拳を修行する。
これが最も大切なことなのです。