太極拳経の著者、王 宗岳(おう そうがく、生没年不詳)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。張三豐が始めた内家拳法をより実戦的に道家内でしっかりと技術体系化した太極拳法という武術と、剣法と陰符槍法を得意としていました。
清朝は禁武政策の中でも、道教を保護していましたから、 山西人で乾隆56年から60年(1791年 – 1795年)にかけて、若き道士を集めるため河南、洛陽、開封などに滞在し太極拳法の宣伝に努めることができました。その時に、河南省温県にある長拳・砲捶の武術が盛んな陳家溝を訪れて滞在し太極拳法を教えました。逸話によると、一夜その土地に留まりその土地の武術を学ぶもの達と武術談義になり、翌日王 宗岳が陳家溝を離れようとして出発したところ、昨夜の論議に飽き足らなかった村人達は腕の立つもの数名を選んで王 宗岳を襲わせたところ、王 宗岳はやむなく立ち会いその数人をことごとく打ち負かしたといいます。村人達は王宗岳の太極拳法の強さを知り、逆に王 宗岳に教えを求めました。これは清朝の禁武政策の中、思うように武術練習ができなかった若者達の欲求に合致し、王宗岳はそのまま陳家溝に留まり、素質の良いものを選んで太極拳法を教えました。その中で一番上達したのが蒋発というものであり、後に陳 長興(ちん ちょうこう、チェン・チャンシン、1771年 – 1853年)に太極拳法の奥義を伝えました。陳 長興は、清朝時代の実在した武術家で、中国武術のひとつである太極拳の陳氏十四世で陳家太極拳の中興の祖です。
陳家溝において陳王廷(ちん おうてい、生没年不詳。約1600年~1680年)が陳家太極拳の創始者といわれていますが、この頃は三十二勢長拳と呼ばれていて、後に陳 長興のころに王 宗岳の影響を受けて太極拳法と呼ぶようになりましたが、清(1616ー1912)296年間の時代の複数の皇帝たちは、その帝位の間、ほぼおなじ理由で民間武術など一切を禁止していて、陳家溝では、家の窓に厳重にカーテンをしたうえに、部屋の明かりを消して1人で型練習するしか方法がありませんでした。従って、この状況下で拳法を学ぶことは難しく、太極拳法を真に学びたいものはほとんど王宗岳と共に道家に入山しましたので、陳家溝での太極拳法は名ばかりで従来通りの長拳・砲捶の武術が主体になっていたうえに、ほとんど武術の練習ができなくなっていました。
そのような中で、一人で練習する陳 長興に武術の教えを乞うたがが断られ、こっそり盗み見して武術を覚えたのが楊露禅(1799年 – 1872年)であり、楊家太極拳の創始者です。その後武当山に入り彼も太極拳法を修行しました。そこで行われていた套路が後の大架式になっています。
このように王 宗岳は武当山で行われていた内家拳を、完全に道教理論と一体化させたものとして大成させ、その強力さを諸国漫遊で当時の清の王朝の保護を受けながら流布しました。ここで多くの道士が太極拳法を学ぶことを魅力として武当山に入山をしてきました。王 宗岳は自らの役割を成功させたのです。このことはTaichiMasterというジェットリー主演の映画で、王 宗岳とその師である張三豐を重ね合わせた映画を作っていますが、このような史実に基づいて創作されたものでしょう。
王流の楊式太極拳は、この王 宗岳の太極拳法を中興の祖としています。