太極拳の音楽
この音楽は、太極拳発祥の地「武当山」の、秘伝の旋律と、折畳と鼓蕩という隠されたリズムが練り込まれた、特殊な音楽です。
存思太極拳だけでなく、導引や内丹に使用される、とても不思議な音楽です。
一度聞かれると、それが経験できるはずです。
This music is a special music that includes hidden folds and drums, as well as a secret melody in Mt. Buto,… 続きを読む
この音楽は、太極拳発祥の地「武当山」の、秘伝の旋律と、折畳と鼓蕩という隠されたリズムが練り込まれた、特殊な音楽です。
存思太極拳だけでなく、導引や内丹に使用される、とても不思議な音楽です。
一度聞かれると、それが経験できるはずです。
This music is a special music that includes hidden folds and drums, as well as a secret melody in Mt. Buto,… 続きを読む
《Composition:January 5, 2008:Trip Series(Trip MU,Trip HIGH,Trip Nirvana,Others)
トリップシリーズ作曲 2008年01月5日(Trip MU,Trip HIGH,Trip Nirvana,他)
《Trip MU:January 5, 2008 Release:music of DVD(Old Taichi of Yang Style)》… 続きを読む
楽観的と悲観的という言葉があります。相反するものです。
経験に対して、どのように観るかと言うことです。
経験はとてつもない情報を含むものです。
その経験をどう解釈するか。どう認識するかで全てのことは大きく変わってきます。
太極拳であろうが、人生の何事もその認識が何もかも変えていくのです。
例えば、経験したことが失敗であると感じたとします。太極拳なら技が流れるときです。
その原因を自分の内的なことに有ると認識するか、または外的なことであると認識するか?… 続きを読む
今生さえ楽しければ良い。
死んだ後も、生まれる前も気にしなくても良いと言うことです。
この瞬間を精一杯楽しもうというのが「道」の価値観です。それが滔々と続く。絶対的に。
「道」とは人間にそれを教えるものです。
今生さえ楽しければ良いと、自分(個人)さえ楽しければよいは違うことです。
この瞬間が楽しいと言うことは、実は全てと楽しさを共有していることになります。
「道」にも光り輝いているから楽しいのです。
太極拳の套路はこの瞬間を輝き続けながら、いつまでもいつまでも輝いていきます。これが套路です。… 続きを読む
世間には、色々な常識があります。
古くから続くもの、宗教の常識。科学の常識。武道の常識。などなど。
しかし「道」には常識がありません。
「道」には常識が無いから、道なのです。
常識とは辞書のとおり「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断。」ということです。
ですから「道」の常識と説く時点で、おかしな話になります。
その常識に縛られてしまうと、「道」から遠ざかります。
しかし「道」の常識を知識として構成していると、あたかも「道」を説いているようにも見えます。… 続きを読む
まず結論から言いますが、どちらも良いということです。
どちらでも、おおらかに滔々とした套路が行えるというのが太極拳の向かうところです。
太極拳は、太極といわれるように混沌とした世界を全て融合して和合するものです。
この私たちが生きている実際の毎日の社会そのものも、混沌とした世界です。
よく、音楽を聴いていると心が定まらないし、意識が散乱するので、套路をするときには音楽を聴かない方が良いといわれる場合があります。… 続きを読む
今日の夜間クラスは白蛇吐信。終盤に出てくる通常は撇身捶のところで白蛇吐信の尖掌を打つ。撇身捶は「裏勢」にて巡るべき巡る短打を繰り出す型で、最後に裏勢を飛び出して戻ってきた撩拳にて過渡式となる。
白蛇吐信は、放鬆によって経絡が閉じる(合経)により、その最も中心にある人間の矢状面を走る中心線「中(ちゅん)」に収斂した右手がまるで蛇の下のように繰り出される。
収斂したときには、蛇が舌をぐっと喉の奥にため込み、そこから口を開けて喉の奥から舌が飛び出し様な発勁となる。… 続きを読む
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今一般に普及している太極拳は、攻防を目的にしたものではない、ただそれだけのことです。
楊式は楊無敵と言われたほどの理想的な攻防術です。しかし、それを極めるには、武道としての太極拳、すなわち、道が必要なのです。太極拳は道教の道の教えから名付けられています。しかしそんな難しいことはさておいて、簡単に自然で、無為すなわち故意ではない自然体であるときに使える武術なのです。… 続きを読む
「直心是道場(じきしん これどうじょう)」とは
「素直な心があれば、どこでも修行の場になる」という意味の言葉です。
あるとき、一人の修行者が「都会の騒がしい環境では修行ができない」と思い、静かな場所を求めて街を出ようとしていました。すると、門で維摩居士(ゆいまこじ)という高僧と出会います。
修行者が「どこから来たのですか」と尋ねると、維摩居士は「道場から来たよ」と答えました。
「それはどこにあるのですか?」とさらに尋ねると、彼はこう言いました。… 続きを読む