今年に入ってから、太極拳武道クラスの門下が全員そろって参加できる日があったため、陳炎林の「散手対打」を、新しい門下のために久しぶりにやってみることにした。
今までも、当門楊式太極拳に伝わる「散手対打」は、武道クラスでは毎回主要練習として行っていて、陳炎林の「散手対打」の数十倍もある内容になるが、陳炎林の「散手対打」のように、ここまで長く連環する散手対打は、覚える作業が必要となるので、多くても道場で行うのは10連環くらいの散手対打である。それを毎回数個の違った内容をやるのである。陳炎林の散手対打も、陳炎林が練習として対錬で行っている散手対打を、書籍に掲載するために、中国の人が好きな数字である88連環させて、最初と最後を締めくくったものであり、もちろんここに掲載された散手対打が全てのはずがない。… 続きを読む
30年ほど前、兵庫県の六甲山の山奥で、武道としての太極拳を練り上げるために、さんざん太極剣と太極刀を教わりました。
鉄製の太極剣と太極刀はとても重く、非力なものは腰腿を使いこなさないと振れるものではありません。
しかしながら、筋力を鍛えれば、それなりに振ることはできます。多くの中国武術はそのようにして振ります。
そのように筋力を鍛えなくても、楊式の太極剣は、女性でも非力なものでも腰腿を使うと、重い剣や刀を旋風のように使うことができます。
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今日の朝。いつもの公園の地面に、桜の花びらの絨毯が敷き詰められている。足下には、花びらと、地面がまだらを描いている。
この美しさは、無用の用である。
花びらが実なのか?
地面が実なのか?
虚実が織りなって、いい知れない美しさを醸し出している。
太極拳は陰陽の行である。
陰が実なのか、陽が実なのか。
花びらが浮かび上がるのは、地面があるからだ。
地面が存在を見せるのは、花びらの仕業。
太極拳の型と型の間に、過渡式がある。
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違和感。
清々しい命(生命ではなく、刹那の命)、爽やかな性(先天的な人間としての性)、絶対的な理(何の相対的な条件も影響しない理)が丹、それ以外のものを違うと感じる、その違和感です。
美しい真珠を選定するときに、ひたすら美しい真珠を愛でてその命と性、その理を感じ尽くしてから、多くの真珠の中から違和感のあるものを感性で取り除いていく、そして残ったものが高潔な真珠として世に出て行く。
太極拳では、坐道(静坐)や存思(瞑想)でひたすらこの感受性を高めていきます。… 続きを読む
武当派の楊式太極拳には多くの武器術があります。
ポピュラーなものは、太極剣、太極刀ですが、これは斬ることが目的の動きになっているので、武器があると素晴らしい武器術になります。しかし、徒手においても掌法を使用して十分使えるのです。この流れは、古式の武当太極拳では、しっかりと八卦掌という型を套路に盛り込み修練していました。今も伝承されています。もちろん王流の套路でもこの流れを失わず、掌法はしっかりと練習します。… 続きを読む
武当派の太極拳は、人々の長寿と健康を達成するために、あらゆる面から経験と実践で研究し尽くされた修養法です。
古くはインドの印法、中国の漢方医学の流れを、武道の気と息と動きとに融合させた,理想的な健康法です。
太極拳で健康 有酸素太極拳で健康
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美しい身体は、体の中心部で作られます。外側の余分な脂肪や筋肉は,内部の筋肉や生理バランスに消費されます。太極拳はインナーマッスルで動く武道ですから、美しい体を作るには最適な運動です。 |
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仏陀の言葉に「天上天下 唯我独尊」という言葉があります。
うちにいる文鳥たちは、空を飛びます。
私はいくら手を広げても空を飛ぶことはできません。
しかし、私は、大きなものを持ち上げることができます。
ギターの弦は震えて音を出します。
とても美しい音です。
しかし、私はたくさんの歌を歌えます。
そうなんです。全てのものは全て違って全て素晴らしいのです。
これが唯我独尊です。
そして天上天下。全ての中にいると言うことです。… 続きを読む
胡蝶の夢は、道教の始祖の1人とされる荘子による有名な説話です。
巨匠フランシスコッポラがこの説話をモチーフにした文学作品から映画を造り上げました。
私も見ましたが、その思想がよく表されています。
胡蝶の夢は、荘子が夢の中で蝶として、楽しくおおらかに飛んでいたところ、目が覚めたら人間に戻っていた。人間としての私が、蝶になった夢をみていたのか、それとも今の私が蝶が見ている夢なのかという説話でです。
太極拳では無為自然を教えます。… 続きを読む